お茶の歴史
伝説によると、およそ5千年前、中国の神農(火と商業と農耕の神で漢方薬の始祖とされている)が湯を沸かしているところに突風で茶葉が鍋に入り、それがお茶の発見につながったと言います。この偶然発見された飲み物は間もなく、中国で好んで飲まれるようになります。それからの3000年以上もの間、お茶の文化は中国でのみ発展してきました。
仏教の僧侶がお茶の淹れ方を日本に伝えたのは、西暦600年頃のことです。すると日本人は飲茶をあたかも聖なる儀式のようにして取り入れ、お茶はやがて国民的飲み物になりました。それは今日でも変わっていません。
その後、ヨーロッパ人は16世紀と17世紀に船で新世界に乗り出した頃、貴重な商品としてお茶を「旧世界」に持ち帰ってきたのです。これは主に英国人で、彼らは飲茶を洗練した形で重要な生活の一部として位置づけました。
ボストン茶会事件
英国からの移民が17世紀末にアメリカにお茶を伝えると間もなく、そこでもお茶の人気は高まり、中でも裕福な人々に愛されました。お茶は1760年までに、ニューイングランドに輸入された商品の第三位にまで躍進しました。この新たな収入源を利用しない手はないと、イギリスは紅茶に高い税金を課しました。これをきっかけにアメリカ全土で大規模な抗議行動が起こり、東インド会社(当時、最大のお茶貿易商)はこれを受けてすぐに税金を廃止しました。しかし時すでに遅し。人々は報復を企てました。1773年12月16日、ボストンのセント・アンドリュー・フリーメーソンのメンバーが、モヒカン族に扮装して港に停泊していた東インド会社の船に乗り込み、342個の茶箱を海に投げ捨てたのです。
皮肉なことに「ボストン茶会事件」と呼ばれるこの事件は、アメリカでの英国支配からの独立戦争へと発展しました。
紅茶輸送帆船「ティークリッパー」
お茶の独占貿易が1834年に終わると、英国海運業界は突然、特に米国との厳しい競争に直面させられることになりました。優勢を得るため、海運企業は次々に「ティークリッパー」と呼ばれる帆船を作りました。これらの帆船は4本以上のマストを持ち、船首をかなり下げた細身のもので、貨物積載容量が比較的大きい割に総トン数が軽いため、高速で航行できました。英国のティークリッパーのうち最も有名なものの一つは1869年に造船されたカティーサークで、現在テムズ川のグリニッジに展示されています。1869年はスエズ運河が開通した年でもありました。この運河の開通により、茶の産地への行程が約7000キロも短縮され、おかげで蒸気船でも輸送できるようになりました。こうして、ティークリッパーはその役目を終え、近代的な貿易船時代の幕が開けました。